月夜に彩られて -Lighted Darkness-



思い出せるのは、黒い瞳と。
甘い、甘い香り。





今でもはっきりと覚えている。
あれは初めての夜会のとき。
婚約者だったジョアンは緊張している私を置いて、旧知の貴族の青年たちの輪に入っていってしまった。
楽し気に談笑をしている華やかな人々は、すぐ近くにあってまるで遠い世界のことのようで、私は一人でそれを眺めていた。
その世界の中で、私と同じように一人壁際に佇んでいる人に気づいた。
黒い髪に、目立たない意匠の礼装を着た青年。
顔を伏せがちにしたまま、青年は私のいる方を見て──私に気づいて僅かに顔をあげる。
向けられた切れ長の黒の瞳から、私は目を逸らせなかった。
どうして今まで気づかなかったのだろう。どうして誰も気づかないのだろう?
──あんな強い瞳を持った美しい青年に。
私は魅入られたかのようにその青年貴族を凝視してしまっていた。そんな私に不審の目を向けることなく、青年は微笑みを返してきた。
その柔かく優しげな微笑にこたえることは出来なかった。
高鳴る胸の鼓動から耳を塞ぐように、私は彼から顔を背けていた。
この場にいるのがたまらなく居た堪れない気がして、私は大広間から急いで出た。


大広間に隣接する応接室には人の姿がなく、どことなく薄暗かった。
壁一つ隔てただけの静けさと薄暗い照明は、そのときの私をとても落ち着かせた。
カーテンの隙間から差し込む月明かりに誘われるように、私は窓に近づいた。そっとカーテンを除けて窓の外を眺める。
夜空には美しい満月が密やかに静謐な夜を照らしている。
虚空に浮かぶ月は、何故か広間で見かけた青年を連想させた。じんわりと頬が赤らむのを感じる。
「──今夜は月が綺麗ですね」
低くよく透る声。
それが誰の声なのか──わかった。私はゆっくり振り向く。
黒髪と黒い瞳の青年が立っていた。
「今晩は。ミス・ニューマン」
青年はそういって穏やかに笑う。
「え、えぇ…どうも」
高圧的な物言いをされたわけでもなく、不躾な態度をとられたわけでもない。それなのに、ひどく落ち着かない気持ちになっていた。
「あなたは…」
「アステルです。アステル・ティンロット」
聞いたことがあった。
「ティンロット伯爵の…」
「えぇ」青年は手に持っていたグラスを近くのテーブルに置く。
広間で垣間見せられた時とはちがう、静かな瞳が私を見る。
「─ご気分が優れない?」
「え? いえ…そんな」
「先程の広間では」
一歩ずつ、猫のように音もなく。青年はこちらに近づく。
「顔色が優れないように見受けられましたが?」
「いえ、人に酔ったんですわ…きっと。今夜が初めてなものですから。今は…」
「今は…?」
艶めいた響きを伴う問いは、広間で沸き起こった感情を思い出させる。
知らずに逃げようとしていた体が窓にぶつかり、逃げ道を塞ぐように青年の手が窓に置かれる。
「あ、の、ミスタ・ティンロット…」
「アステルと呼んでください……カーラ?」
少しかすれた囁きに体がぞくりと震えた。
「やめて…離れて下さい、人を」
「どうぞご随意に」
悪戯っぽく囁かれる挑発。月明かりを冷たく反射する漆黒の双眸が私を捉えていた。
ひんやりした指がそっと頬を撫でる。
「──目を閉じて、カーラ」
目を閉じると、


 甘い、香りがした。



                            End


   頂いた日 2005/07/10 感謝:相方


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